バイマンスリーワーズBimonthly Words
我慢はいけない
「それって 前に言いましたよねぇ」
ITでわからないことを部下に尋ねたら、
上から目線で対応され「えっ?」と凍ってしまった。
テクニカルハラスメント(テクハラ)と呼ばれる光景です。
急速に進化するITにはついて行くのが精一杯。
若い部下には「こんな簡単なこともわからんのか!」
と厳しく指導してきたので、ずっと我慢をさせていたのか。
ムッとなったが、ITでは部下が勝っているので仕方がない。
パワハラやセクハラなど職場はハラスメントで溢れており、
そこへコロナ禍が加わり“うつ”を発症する人が増えています。
SNSで誹謗中傷を受けたタレントが、自ら命を絶った悲劇もあり、
小さなことだと軽んじていると、大きな痛手になるかも知れません。
自分よりも劣る相手をみつけ、抑圧された感情をぶつける…。
うまく処理されなかった感情はいつか牙をむくでしょう。
他の部署からや、外部からの攻撃ならかわすことができますが、
上司と部下、トップと後継者など上下の圧力は重くのしかかってきます。
次々と自分の周りに起こる不快な出来事にどう対処するのか…。
これまで幾度かこの場でご紹介した中村久子氏の人生には、
コロナ禍を生きる私たちに貴重な教訓が刻まれています。
自分の主張が通らないことに 我慢できない
中村久子は明治30年岐阜の高山に生まれましたが、
3歳の時に特発性脱疽という難病で両手両足を失います。
母親のあやは、悩んだ末に久子が自立できる道を選びます。
それは無手足でも文字が書け、料理、縫い物をこなすことでした。
厳しい母の指導のもとで血のにじむような努力を重ねた久子は、
日常のほとんどを自力で生活できる技を身につけました、
20歳に自立し「だるま娘」として旅芸人になりますが、
その暮らしにはこれまでとは違う試練が待ち受けていました。
実父は7歳の時に他界、義父からはいじめを受け、
恥さらし、厄介者、と罵倒される関係になったのです。
また見世物小屋では嘲笑され、座員からもいじめられ、
その心中は我慢の限界をはるかに超えていたでしょう。
一方、現代に生きる私たちにも様々な問題が生じます。
若い経営者は新しい時代に沿った経営のあり方を力説し、
熟練の経営者はこれまでに成功した方法や考え方を強調する。
それは自分の主張が通らないことを我慢する「がまんくらべ」です。
現場実務を覚えるので精一杯だった後継経営者も、
経験を積んで徐々に経営者としての力をつけてきます。
そして、いよいよ交代時期が近づくと微妙に力関係が変化し、
経営トップと経営方針で対立するようになるのです。
「ITをもっと活用したい。今のままでは時代遅れになってしまう」
と、後継者は主張しますが、長年経営をしてきたトップは、
「ITも重要だが、お客様との心のふれあいを優先するように」
と、がっぷり四つで組み合い、どちらの我慢もいっぱいになっています。
我の慢心を捨てるには 慢心ではなく 我を捨てる
ここで中村久子の話に戻ります。
幾多の苦難を経験した久子には、その後執筆や講演の依頼がきました。
しかし、過去の苦労を高い所から話す傲慢な自分に気づき、悩み苦しみます。
そして「絶体絶命の中で生き抜いた自信こそ、己の慢心の正体であった」と、
悩みの本質を悟り、生きる原点である見世物小屋の芸人生活に戻るのです。
仏法では ~ 我慢はいけない ~ と説いています。
それは我慢の意味が「我に慢心を抱く」ことによります。
「私は誰よりも勉強し努力をしてきた」
「私の考え方、やってきたことは正しい」
人生を真剣に生きてきた人ほどこう思いがちです。
自分に自惚れ、驕り高ぶり、他を軽んじる心は誰もが持っており、
転じて、慢心を抱くこと、強情なことを仏法は我慢と呼んだ。
こんな慢心が、間違った判断を生み、悩みとなる…。
ならば、そんな我慢など捨ててしまえ、というわけです。
若い経営者が未来のIT社会を見据え、先端技術をマスターしても、
慢心しているとその技術もいずれ色褪せ、時代遅れになります。
熟練の経営者であっても、過去の成功に囚われていると、
支援者は減り、新しい時代からの要請もないでしょう。
慢心つまり我慢を捨てるにはどうすればいいのか?
具体的には何を捨てればいいのでしょう…。
工学博士で仏教研究家の 森 政弘教授はその著書で、
我慢についてこのように解説しています。
「我慢とは、我があるから、つまり自分が大事だから生じる気持ちです。
ですから我がなければ、すなわち無我ならば、我慢など現れようがない」
つまり 我慢 を捨てるとは、
「我の慢心」の“慢心”を捨てるのではなく、
“我”を捨てて無我になれば、我慢も一緒に消えるというわけです。
如何なる人生にも 決して絶望はない
嫌なことを我慢することで事態が好転すればいいが、それは難しい。
しかし、今できること、やりたいことに無我夢中で取り組めば、
まさに無我になって、我慢が楽しくなるかも知れません。
真の敵はコロナでも不況でもなく、我の慢心にあったのです。
今回、コロナの影響をほとんど受けていない企業や、
コロナ特需で業績を伸ばしている企業もあります。
こんな企業の経営者は慢心に気をつけましょう。
変化する環境への対応力が鈍くなる恐れがあります。
理不尽なコロナ対策に苦しむ飲食店やそれを支える酒販や食材業者、
観光や演劇などの現状は目も当てられず、悲惨さが漂います。
五輪開催の是非問題、ワクチン接種のあり方についても、
とにかく我慢のならない状況が続いています。
~ しゃべったら 重い話も 軽くなる ~
我慢と辛抱は意味が違うといった意見もありますが、
同じ心根から出ており、いずれも溜め込むのはよくありません。
コロナ禍だからこそ溜め込まないで、言うべきことは言いましょう。
幾多のハラスメントを克服した久子は、晩年にこう述べています。
「私を軽蔑し 私を酷使した方々でさえも
今になって思えば 私という人間をつくりあげるために
力を貸してくださった方々だと そう感じているのです」
そして 私たちにこんなメッセージを残して
72年の人生に幕を下ろしました。
~ 人生に絶望なし 如何なる人生にも決して絶望はない ~