バイマンスリーワーズBimonthly Words
惻隠の情
「世界で一番、足の速いのは俺さまだ」とウサギがいうと、
「それなら、あの山まで競争しよう!」と亀がいいました。
よ~い ドン!で飛び出したウサギは、楽勝なので途中で一休み。
一歩ずつ歩いた亀は、寝ているウサギを追い越して先にゴールしました。
楽に勝てる勝負でも、ウサギのように油断をしてはいけない。
亀のようなのろまでも、あきらめなければいつかは勝てる。
そんな教えを込めた誰もが知っているイソップ童話です。
ところがこの勝負には少し違った見方があります。
亀は山の頂上を目標にしていたのに対して、
ウサギは亀に勝つことを目標にしていたのです。
つまり、目標設定の違いが勝敗を分けたという見解で、
他人との競争よりも、自分に負けないようにせよ、との教訓です。
なるほど、もっともな話です。
ライバル企業の動向には常に注意が必要です。
特に長かったデフレからインフレ傾向にある昨今では、
価格コントロールを間違えるとライバルにお客を奪われてしまう。
しかし、ライバル企業の動きばかりに心がとらわれると、
本来めざしていた方向から、はずれてしまう。
~ 敵は我に在り ~ということでしょう。
中小企業にはやってはならない競争がある
超極小プラスチック歯車で注目される樹研工業の松浦元男社長は、
価格の競争、規模の競争、品揃えの競争はやってはならないという。
値下げ合戦は自分の身を削り、いずれ会社が立ち行かなくなる。
規模の競争は設備投資を伴うため、財務基盤の弱い中小企業には不向き。
品揃えの競争は見栄の張り合いであり、結局はムダな在庫を持ってしまう。
一方、品質と技術と財務の競争は大いにやるべきだという。
顧客からの信頼の源である「品質」は、毎月5000万個の部品を作っているが、
不良品を出したことがない。そして、
~ 世界一でなければ意味がない ~ が樹研工業の「技術」に対するポリシーで、
世界最小の100万分の1グラムの歯車はこの思想からできたという。
ライバルと勝ったり負けたり切磋琢磨することで人も企業も成長する。
ところが競争する土俵を間違えると命取りになるわけで、
中小企業にとっては大切な教訓としたい。
じつはウサギと亀の話にはもう一歩、深いところの話があります。
京の老舗「半兵衛麩」の玉置半兵衛氏が子供の頃、父親からこう教えられました。
「あんなあ、よおうききや。亀さんが自分自身と戦うのは、それでええ。それで立派な亀さんや。
けどな、亀さんは寝ている兎さんを追い抜く時に、
『兎さん、兎さん、そんな所で寝ていたら風邪ひくよ、競争で私に負けるよ!』と、
油断している兎さんを起こしてあげるくらいの優しさと寛大さが、亀さんにあったらもっとええのや。
自分に厳しく、人には優しくの心を持たんとあかん」
(『あんなあ、よおうききや 』玉置半兵衛 著より)
イソップの童話でも昔の日本人が解釈すればこうも違うのか、と感動します。
私の中に競争企業を起こすぐらいの度量があるか、自信がありません。
競争相手をも包み込んでしまう、なんと大きな心でしょう。
長寿企業の経営哲学が滲み出ている話です。
利害の対立を超えたところに新たな成長がある
~ 惻隠(そくいん)の情 ~
「惻」とは、人に同情しいつも心について離れない様子で、
「隠」とは、相手の身に寄り添って深く心を痛めること。
人が困っているのを見て、自分のことのように心を痛める、
そんな心もちのことを「惻隠の情」という。
孟子は親が子を思う心を「惻隠の情」とし、社会生活の全てに及ぶように説いた。
日本では昔から、相手を憐れみ、心から同情することを大切にしてきました。
身内だけでなく、勝負を競う相手であっても思いやりの心を大切にした。
この思想が武士道精神に大きな影響を与えたともいわれています。
現代社会の風潮に、さもしい気分になることがあります。
相手のミスを、皆で喜ぶようなクイズ番組があったり、
勝ちは決まりなのに、土俵の外でダメ押しをする横綱がいる。
グローバル化の流れでディベートの技術を身につけるのはいいが、
言葉で相手を負かそうとするビジネスパーソンには共感できません。
惻隠の情は、競争相手に対する心もちだけではありません。
通常、経営者は社員が労働組合を作ることは嬉しく思わない。
戦後まもなく、松下電器でも労働組合の結成大会が開かれました。
松下幸之助の偉大さはこのような時に発揮されます。
組合の結成に社長として祝辞を述べようと、招かれないまま会場に出向いたのです。
ところが幸之助の申し出は、組合員には容認されません。
場内騒然となったが、ようやく登壇を許され次のように語った。
「組合の結成によって、わが社の民主経営に拍車がかけられると思う。
これを期に全員一致して真理に立脚した経営を行なっていきたい。
正しい経営と正しい組合とは必ず一致すると信ずる。
労使が一体となって新日本の建設に邁進しよう」
この祝辞に組合員から割れんばかりの拍手が起こったという。
まさに利害の対立する組合員と経営者とが一体となった瞬間です。
独り勝ちに未来はない
力をつけた社員が転職や独立する場合もあります。
それは利害の対立するライバルになることもあるでしょう。
せっかくここまで育ったのに、競争相手になってしまうのか…。
私自身も独立していく社員のことで悩んだ時期がありました。
ところが経験を重ねるうちに、ふと気づくことがあります。
今回のTPP交渉では、多くの団体が手を組んで危機に臨み、
最近は大手銀行だけでなく、地方銀行でも合併・再編が進んでいる。
そう、環境が変わると、競合が味方になり、味方が競合にもなるのです。
力のある社員と利害が対立するのは、お互いが無事に成長している証です。
逆に、転職し独立した元社員の仕事が順調でなければ、それは悲しい。
人間の心の中には、元々人に対する惻隠の情が自然に備わっており、
そこには自己と他者を一体とする「自他一如(じたいちにょ)」の精神がある。
独り勝ちには未来はありません。
自分だけが勝ちたいとする考えには限界があります。
あなたと対立している存在は、実はあなたと一体の関係にある。
利害の対立する存在を切り捨て、相性の良くない人を避けようとしても、
あなた自身が変わらない限り、また相手を引き寄せ、永遠に対立関係は続く…。
今回の大震災では”品格ある東北の人”に海外メディアが感嘆の声をあげました。
それは日本人に「惻隠の情」が根強く残っていたことの証明でした。
自分さえ良ければいい、という心根の経営はいずれ限界がくる。
経営をうまく続けるコツはこんなところに潜んでいたのです。