バイマンスリーワーズBimonthly Words
勢い使い尽くすべからず
弊社の経営者大学では数年前から新年の京都校に限り、参禅研修をもうけています。
今年も会場近くの興聖寺で厳粛に座禅を体験できましたが、
今回は運良く参禅後に和尚の長門玄晃師から掛軸に書かれた言葉に沿った法話をいただくことができました。
勢不可使尽 (勢い使い尽くすべからず)
使尽禍必至 (勢い使い尽くせば禍必ず至る)
福不可受尽 (福受け尽くすべからず)
受尽縁必孤 (福受け尽くせば縁必ず孤なり)
規矩不可行尽 (規矩行い尽くすべからず)
行尽人必之繁 (規矩行い尽くせば人必ずこれを繁とす)
好語不可説尽 (好語説き尽くすべからず)
説尽人必之易 (好語説き尽くせば人必ずこれを易る)
達筆の文字と和尚のお言葉に、何となく分かったつもりでその場を失礼しました。
後日、長門和尚より詳しく教えていただいたところ、
これは中国の法演禅師(1104年没)という名僧による誓願のお言葉で、
師の弟子が寺の住職をする際に「およそ院に住す、己がために戒めるもの」として
「法演の四戒」と呼ぶそうです。
俗世で会社の運営を預かり、また後継経営者として次世代を担っていく私達に置き換えると、
大切なメッセージが秘められているように思えてなりませんでした。
勢い使い尽くすべからず 使い尽くせば禍必ず至る
その後、私なりに解釈を巡らせていくと「法演の四戒」には、
現代の経営者に対する大いなる示唆が凝縮されていることに気がついたのです。
まず、第一戒の“勢い使い尽くすべからず 使い尽くせば禍必ず至る”
いたずらに規模を拡大し、企業買収で太るだけ太ったダイエー。
勢い止まらぬ当時のダイエーから誰が今日の姿を予測したでしょう。
バブル崩壊後も湯水のように資金を注ぎこんだ大手銀行の判断ミスで
今や国家レベルの大問題になりました。
ITブームに乗って急成長したあの「光通信」も然り。
大手通信会社のシェア争いに乗じて、販売代行料とバックマージンで
寄生虫のごとく成長したに過ぎなかったのです。
人は勢い止まらぬ上り調子の時、気づかないうちに“破局の種”を蒔いています。
これが指導者のこころに芽生えた驕りの種です。
企業の衰退は下降線をたどる時から始まっているのではなく、
この“破局の種”が蒔かれた上り調子の時にスタートしているのです。
“勢い使い尽くすべからず”を“ほどほどに…”と解釈すると法演禅師の意図からはずれるようです。
ましてや、苦労してやっと調子に乗ってきた中小企業の社長に“ほどほどにしなさい!”
と言っても、ブレーキを踏め!と聞かされているようなもので説得力はありません。
このチャンスに勢力を拡大しなければ、いつチャンスが廻ってくるかわからないのです。
そうではなく、調子が乗ってきた今こそ自分のやっていること、考えていることを
冷静に総点検して進みなさいと理解したほうがいいでしょう。
福受け尽くすべからず 受け尽くせば縁必ず孤なり
経営者には社会的責任が重くのしかかる一方、同等の権力がついてまわります。
この権力を使って得られた富をどのように使おうと、法に触れない限り自由です。
しかし、法に触れないからといって富をひとり占めにするとおかしくなっていきます。
「儲かるから…」というふれこみで友人・知人を誘って子や孫を増やすマルチ商法。
儲かるようでもたいてい友人・知人は離れてしまっています。
富の代償として友人という財産を失っている人が少なくありません。
たいした利益が出ていないのにオーナー一族で利益のほとんどを取り込む企業があります。
いわゆる企業の私物化です。いずれ社員は馬鹿らしくなって去っていきます。
取引先や周りの企業が苦しんでいるのに独り勝ちを狙う会社もあります。
自分の会社さえうまくいけば良しとする考え方です。
企業がシェア争いに勝って独占状態になると、
どういうわけか横柄な企業に変質していきます。
企業を筋肉質にするシェア争いは大切ですが、勝ってしまうのはよくありません。
なぜなら、競争しているときは消費者や競争相手のことを真剣に考えていたのに、
勝ったと判断したときから自分のことばかりを考えるようになります。
値上げをしたり、品質維持がおろそかになっていきます。
これは勝った褒美としての富を得ようとする動きになっているのです。
こうなれば最大の協力者である消費者から見放され、孤立していくのは時間の問題です。
この第二戒は、人も企業も独りでは生きていけないことを示唆しているようです。
人も企業もさまざまな人やモノ、環境、そして大自然とのかかわり合いの中で存在しているのです。
得られた富をかかわり合いのあった人たちに循環させることでそのネットワークが維持されます。
富とは留めるものではなく、ネットワークを円滑にする潤滑油のように
廻していくものなのです。
規矩行い尽くすべからず 行い尽くせば人必ず繁とす
「規矩」とは、手本とか規律という意味で、上に立つ者が率先垂範するのもいいが、
いつもお手本を見せられると周囲の人はたまらない。
規則正しいのも結構だが、規則ずくめだと息苦しくなって嫌われる。
ここでいう“繁”とは、うるさがるということです。
組織が大きくなると、その指導者は規則を設け、
制度を導入して膨大な数の社員を統制しようとします。
ところが規則や制度をどれほど細かく定めても、
網の目をすり抜ける小魚のような人間が現れます。
そこには規則さえ守れば良しとする風潮が芽ばえ、ときには制度を悪用する人間をも生む。
大企業病はこのような土壌から発生します。
この第三戒も“ほどほどに…”と解釈すると真意からはずれてしまいそうです。
制度に守られどっぷりとぬるま湯につかった人間は、
気持ちがゆるんで自分なりの判断をしなくなります。
長年、大蔵省による護送船団方式で運営されてきた金融機関や、米、酒、たばこなど保護業種。
何にかに守られ、安閑と生きてきた人や企業は、ちょっと元気な企業が新規に参入すると、
ひとたまりもありません。
何かことが起こった時に、規則や制度といった“決まりごと”は組織を支配するものにとって
まことに都合のいいものです。ところが規則や制度は薬と同じで、うまく服用すれば良薬となるが、
ひとつ間違えば毒になることを自覚して使いなさいということでしょう。
好語説き尽くすべからず 説き尽くせば人必ずこれを易る
好語とは、善言や美辞麗句のことで、ときには人を導く真理の意味もあります。
易るとは、軽んずる、大切に思わない、といったことです。
論語に「巧言令色、鮮し仁」という言葉があります。
「口先がうまく、顔色をやわらげて人を喜ばせ、こびへつらうこと。
仁の心に欠けることとされる(広辞苑)」。この第四戒はこんな意味に近いことを指すのでしょう。
また、どれほど人を幸せにする真理であっても、
それを微に入り、細にわたって説かれるとその価値は半減してしまいます。
特に深い真理は逆に説くべきではない、真理とは悩み、苦しんで会得するものであって
人から説明されるものではない、ともこの言葉は訴えているようです。
社員を指揮、指導しなければならない経営者にとっては難しい解釈です。
指揮、指導はことごとく言葉で行われるのに、それを使いすぎると効果がないというのですから。
難しい解釈ですが、教えることよりも育てることに意味があると考えればどうでしょう。
経営者が社員をつかまえて、ああしろ、こうしろ、と説くことは指導者側の勝手な都合であって、
必ずしも育てることにはなりません。近年はマニュアル教育が常識ですが、ルールに沿って
教えることは指導者側のエゴなのかも知れません。
旧来の「先輩の仕事を盗め!」という突き放し型の指導方法は非難の対象になっていますが、
時には本人の自覚を待って、指導者がじっと見守る時間をもつことは人を育てる貴重な時間に
なります。
相手によっては何も言わずに、自分で考え、行動する環境を作ってあげることが
指導者の仕事なのです。
相手によって説き方を工夫せよ、ということでしょうか。
さて、私にもし法演禅師のまねごとを現代の経営者に対して
言わせてもらえるなら、
現状不可安住 (現状に安住するべからず)
安住会社必倒 (現状に安住する会社は必ず倒産する)
を五番目の戒としたいのですが、いかがなものでしょうか。
えっ、「好語説き尽くすべからず、はどうなった?!」ですって?
失礼しました。
調子に乗ってバイマンスリー・・・とかいって勝手な戯言を送ってくる
輩の言うことは、ほどほどに聞いておく方が己のためになるようです。