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バイマンスリーワーズBimonthly Words

やむをえず

2024年09月

~ 年少者は、年長者を敬い
  年長者は、年少者を慈しむ ~
日本では昔から儒教などの影響を受け、
「長幼の序」が最も美しい人間関係とされました。

そんな日本でしたが、年功序列はすでに崩壊し、
「年下の上司」や「年上の部下」が珍しくありません。
そこにパート・アルバイト、期間社員など雇用契約の違い、
入社歴の差などが絡んで運営されているのが中小企業の実態です。

人材の多様化が進む背景には日本の少子高齢化があり、
業界の垣根を越えた人材の獲得競争があります。
よって、優秀な人材を獲得し定着させるためには、
社員一人ひとりへの細かな対応が求められています。

経営の「経」は、一文字では「たていと(縦糸)」と読み、
「経営とは“経(たていと)”を営むことである」とも言われています。
営業と生産、ラインとスタッフなど“横”の連携も重要ですが、
上司と部下の“縦”の関係を、いかに柔軟で円滑なものにするか?

そう、組織経営のカギは、管理者⇔一般社員、管理者⇔トップという、
縦の信頼関係にかかっていると言ってもいいでしょう。
そして、最終的には、
トップ ⇔ 後継経営者
という二人の信頼関係に収斂されます。

「やむをえず」は“究極の受け身”である

営業や生産、管理部門など一通りの実務経験を積み、
リーダーシップも磨かれた後継経営者がここにいます。
ところが新しい取組みや、重要な経営判断が必要になると、
何かとブレーキをかけてくるトップの存在に悩まされています。

それは、今では会長や相談役といった肩書にはなっていますが、
今も管理者の心の中に大きな影響力をもった経営トップです。
これまでの会社の基盤を作ってきた功労者なのですが、
最近は時代の流れにそぐわない言動が目立ちます。

会社の存続と発展、若い社員の将来のことを考えると、
トップとの対立を覚悟して、後継者としての考えを通すか?
いや、これまでの功績を配慮し、トップの顔を立てるべきか?
さあ、あなたがこの後継経営者だったらどのように行動するでしょう。

古代中国 老荘思想の大家『荘子』は、
~ やむをえず ~ の思想を大切にしました。
「感じてしかる後に応じ、迫られてしかる後に動き、
 已むを得ずしてしかる後に起ち、知と故を去りて天の理に随う」
 
~ 自分の考えで動いたり、変化したりするのではなく、
 周りに迫られてやむをえずして行動し、小賢しい知恵や意思を捨て、
 天道や自然の理に随っていくことが、一番よい生き方である ~
   (NHKテレビテキスト 100分de名著「荘子」を要約)

これは見方によっては「究極の受け身」になりますが、
荘子は“受け身”こそが「究極の主体性」であり、
最高の行動原理であるとしました。
これはいったいどういうことでしょうか…。

“究極の受け身”が「究極の主体性」に変化する

新入社員がすごい勢いで成長するのはなぜでしょう。
周りの人が、その新人にできそうな課題や仕事を与え、
新人はどんな仕事であっても、できる できないに関わらず、
受け身に徹して仕事を引き受け、必死になって取り組みます。

これが続くと、新人が周囲の力を集める“パワースポット”になり、
職場にいる人全員が、新人を成長させる集団に変化するのです。
すると受け身に徹した新人は、周りを巻き込む主人公になり、
これこそ究極の受け身が「究極の主体性」に変わるカラクリです。

人は誰でも自分が望むことなら喜んでやりますが、
“嫌”だと感じたら、瞬間にできない理由を考えます。
以前ならトップに言われることも素直に耳を傾けましたが、
今では瞬間に「またか」「うっとうしい」と感じ、心の中で拒絶する。

後継経営者も経営者としては新人であり、成長が求められます。
上位からの圧力に対抗したり、避けたりをするのではなく、
「やむをえず」の心境で、受け身に徹してみてはどうか…。
ならばトップはもちろん、他の人も成長を支援してくれるでしょう。

そして、“究極の受け身”は後継経営者だけでなく、
上位にいる経営トップのための重要な心構えなのです。
ベテラン経営者から見ると、やはり後継経営者は頼りなく、
会社を背負う経営者になれるかどうか、疑わしいでしょう。

そんな後継者が「あれがしたい」「これもしたい」と言ってきたらどうするか?
失敗をする確率が高くても、頭から反対することはやめましょう。
うまくいくかどうかは、神のみが知るところであり、
こちら側が“受け身”の練習をするのも必要なことです。

西洋の「自由」と 荘子の「自在」は違う

「〇〇歳になったら交代します」とか「△△周年記念を機に引退します」
と宣言するベテラン経営者もいますが、大抵それは実現できません。
これも荘子が言うように、知恵や意思を捨て、自然の理に随い、
その時が来たら「やむをえず」の心境で交代するのがいい。

今では「やむをえず」をネガティブな意味に使われますが、
荘子はこれを完全に肯定的なものである、としました。
そこには、西洋思想が説く「自由」の発想ではなく、
なにものにもとらわれない「自在」の境地から生まれました。

西洋の「自由」とは「みずから勝ち取るもの」であり、
そこには自己を中心にした権力との争いが背景にあります。
一方、荘子がいう「自在」とは「おのずから任せる」の境地で、
「“自分”とは自然の分身」とする東洋的な考え方が反映されています。
とらわれず、こだわらず、変化する自然に任せきる、ということでしょう。

“丹波あじさい寺”の住職 小籔実英さんの詩に、
「風呂敷のような心」があります。

~ 風呂敷は 丸いもの 四角いもの 重いもの 軽いもの
 なんでも包み込む 風呂敷のような心を持ちたい
 どんな人の心でも 上手に包んで持ち運びのできる
 風呂敷のような心を ~

相手によって自在に変化する風呂敷は、
たった一枚のシンプルな布からできています。
心を柔らかくして、自分を変えることができるなら、
相手がどんな形をしていても、楽しい人生になるでしょう。

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