バイマンスリーワーズBimonthly Words
力のかぎり ひと時を咲く
街で見かけた方もあるのではないでしょうか、
ストリートビューの撮影に使う人力自転車の「トライク」。
Googleが提供する地図サービスに組み込まれたストリートビューは、
世界の主要都市が、360度のパノラマ写真で見ることができる優れもの。
2007年からカメラを載せた自動車で撮影していましたが、
トライクの登場で自動車が入れない観光名所や公園などもカバー。
人の顔や窓の中まで見えるのでプライバシーをめぐる論争がありますが、
隅からすみまで、なんと細かな撮影を続けるものだと感心します。
ところが、今から200年前にはもっとすごい人がいました。
新幹線もクルマもない時代に日本中を歩いて測量し、日本地図を完成。
歩いた距離は約八千八百里(35,200km)で、ほぼ地球一周分にあたります。
マラソン&ヨットで世界一周をした芸能人も立派ですが、この偉業には及びません。
その人の名は、伊能 忠敬。
当時の幕府はロシア、イギリスなどの外敵に備えるため、
蝦夷地を測量して、正確な地図をつくるよう命令を下します。
未開の地・極寒の地に向かった忠敬はすでに56歳になっていました。
道なき道を歩き、苦難の末に測量を終えて蝦夷地の地図ができ上がりました。
その後も東日本・東海・中国、そして四国・九州を自らの足で測量し、
72歳まで16年の月日をかけて日本地図を完成させました。
なりゆきで経営者になった人も多い
忠敬は18歳で今の千葉県佐原市にある伊能家の養子となります。
酒造家であった伊能家の後継経営者として、充分な働きをした後に、
50歳で長男に家督を譲り、江戸へ出て天文学者の高橋至時に弟子入り。
師の至時は年下の32歳でしたが、忠敬の第二の人生がスタートしました。
当時の平均寿命はずっと短く、
“人生わずか50年”と言われた時代。
酒造業の経営者としても余りある貢献をしたのに、
なぜ忠敬は人生の後半から、まったく新しい分野に挑戦したのか…。
忠敬の人生は二毛作でした。
つまり前半は”与えられた人生”を生き、
後半は”自ら選んだ人生”に挑戦したのです。
じつは、なりたくて経営者になった人は少数派で、
教育や、文化・スポーツなど他の仕事がやりたかったが、
ことの なりゆきで、経営者になったという人も多い。
社長の長男ということで、何となく引き継いだ…。
後継者候補が不在で、引き受けざるを得なかった…。
夫が急逝し、無我夢中のうちに経営者になっていた、などなど…。
ところが、経営者という人生が”与えられた人生”であっても、
眼前の問題に全力でぶつかっていくうちに、経営が楽しくなってくる。
経営が楽しくなると、経営をするための能力が自然に備わってくるのです。
ハイブリッド型の人生もある
日本の伝統的燃料の”炭”は薪を焼いて黒く変化したものです。
それは窯の中で蒸し焼きにすることで、良質な燃料に生まれ変わる。
良質な炭は、燃料だけでなく、脱臭や浄水効果など様々な働きをします。
あなたが経営者になったのは”なりゆき”であっても、
半ば強制的なものであっても、今さらどうすることもできません。
忠敬が50歳までの前半の人生を楽しんでいたかどうかはわからない。
しかし、薪が高温で蒸し焼きになり”良質な炭”ができるように、
何事にも全力でぶつかる熱き経営者だったのでしょう。
経営者が”良質な炭”に生まれ変わると、
心の中に、それはうっすらですが…、
自分にはまだ新たな道があるのではないか、
もっと違った可能性が広がるのではないか… そんな感情がふつふつと湧いてくる。
それは、教育、芸術、農業、はたまた政治への道かも知れません。
ゆったりと時が流れる時代なら、前半で準備し、後半で花を咲かせる生き方もある。
しかし、インターネットの情報で、あっという間に国の政権が交代する時代。
変化が早く、前半の努力が後半の人生で活かされない可能性が高い。
ならば、やらねばならないことと、もう一つのやりたいことを、
同時にこなすハイブリッド型の人生もいいでしょう。
元・セゾングループ代表の堤清二氏は、
詩人・小説家のペンネーム「辻井喬」としても活躍。
シンガーソングライターの小椋佳氏は、
大手銀行に勤務しながら、すばらしい作品を作り続けました。
二人とも、超多忙なビジネスをこなし創作活動も続けるという、
大変ながら、相乗効果のあがるハイブリッド型の人生を選んだのです。
人生には、前半も後半もない あるのは今のみ
平均寿命を80歳とすれば、40歳ぐらいから後半になるのでしょうか。
150万部を超えた詩集『くじけないで』の著者「柴田トヨ」さんは、
90歳から詩を書き始め、もうすぐ100歳。
トヨさんの人生に、前半とか後半といった感覚はまったくありません。
自分は今、人生の前半を歩いているのか、
もしくは後半なのか、それは誰にも分からない。
大切なことは、力の限りに今を生きることであり、
人はいくつになっても人生のスタートに立つことができるのです。
~ 見ずや君 あすは散りなむ 花だにも 力のかぎり ひと時(とき)を咲く ~
昭和初期の京都の佳人で、42歳の若さで他界した、九条武子が詠んだ歌です。
「ご覧なさい、ほら明日は散るであろう花でさえも、短い命を力いっぱいに咲いているよ」
そんな意味が込められています。
一生を貫く仕事にめぐり合えた人は、最高です。
その「道」の職人として高みをめざす人生もすばらしい。
経営という「道」はあらゆる業界や組織に応用できるすばらしい職業。
伊能忠敬は、酒造業の経営でソロバンに強くなったことが地理測量に応用され、
人を使い、組織を動かした経験が、西国を測量する14人の隊運営に活かされました。
忠敬が完成させた東日本の地図を見て、時の将軍・徳川家斉は、
「そうか、これが日本なのか…」と胸をつまらせたという。
忠敬は、言いようのない喜びに満ち溢れたことでしょう。
「私は何をするために生まれてきたのか…?」
今の仕事で磨いた力がいつか活かされる、そんな感動がやってくる。
それからたった200年。
世界各地のパノラマ写真や動画が、パソコンの中で見られる時代。
私達は、先人が苦労して築いてこられた道の上を歩いていることを忘れません。